パーコレーターで淹れたコーヒーの味は砂糖がたくさん入っていたので甘さが強く記憶に残るがそれよりも香りのとりこになっていたことを思い出す。その頃は、母が県庁のさらに浜近くで美容院を経営していたので祖母と祖父が交代で留守中の私の世話をしてくれていた。朝日が丘に県職員の住宅があって同世代の住人が県庁や県事務所に勤務し、朝は遠くに見える琵琶湖を眼下に眺めつつ歩いて県庁に向かうか大津駅に歩いたのだろう。夕方坂を上って家族の住む住宅に帰宅するというスタイルだったろうと思われる。幼稚園に入る年齢になり2年保育の愛光幼稚園に入るために父親は徹夜で並んで入園の権利を得たようである。愛光幼稚園は3年保育から制度化されていたのだろう私が入園した時にはすでに一年通っていた先輩の同級生が馴染んでいた分幅を利かせている印象を当時感じていたのだから子どもにだって居心地のよしあしは少なからずあるのだ。
園庭にある遊具は年長がまず占領し、私にまわってくるまでじっと待っていた。このとき「順番を待つ」ことを覚えたのだろう。担任の先生は藤本先生。跳び箱で使うマットの上でよくプロレスなのかすもうなのかよく覚えてないがよく投げ飛ばしてもらっていた。力道山や大鵬、柏戸が大活躍していた時代である。近所の家で相撲やプロレスを見せてもらいに行く時代である。「巨人大鵬卵焼き」の時代である。祖母に言わせると大鵬が負けると大泣きしたらしい。
幼稚園にはお弁当を持って行った。私の持って行っていたお弁当箱はディズニーのダンボが印刷されていた角型のアルマイトで周りの子どものそれと比べ大きめだった。その中に入れてもらっていたのは決まって祖母の作ってくれたオムライスだった。卵も貴重。ケッチャプは白い蓋の瓶詰だった。毎日オムライスを食べ、小太りで、当時かぶっていた幼稚園の黒いベレー帽は55センチだったことを覚えている。祖母が迎えに来てくれていただろうが記憶にない。ただ当時、現在大津裁判所の立っているところにあって移動した滋賀大附属小学校の跡地の周りの壁が残っていたのは記憶にある。
幼稚園から帰宅すると祖母はミルクを温め、コーヒーをいれてミルクコーヒーを飲ませてくれたことを忘れない。ほっとする味だった。祖母と祖父が交代するとミルクコーヒーを味わうことはできなかったことも今思い出した。祖父はキセルで刻みたばこを吸っていてたばこの香りをいつも身にまとっていた。そうそう祖母には幼稚園の帰りに島ノ関駅近くの歯医者に連れて行ってもらっていて待ち時間の間に森永牛乳配達店で瓶に入ったフルーツヨーグルトを食べさせてもらいのが常だった。紙の蓋をとってその紙の蓋を半分に折ってスプーン代わりにしていた。なぜ、スプーンをもっていってなかったのかが未だになぞである。スプーンで食べたほうがおいしかっただろうに。
歯医者の後は滋賀会館まで歩き、一階のロビー喫茶コーナーでソフトクリームを買ってもらってバスを待つことが常だった。日生のコーンにのっかった真っ白で冷たいソフトクリームだった。祖父とは歯医者へも行かなかったしヨーグルトやソフトクリームを食べた記憶もない。瓶に入った牛乳は紙の蓋がしてあり上に薄紫のビニルカバーがかかっていたことを懐かしく思い出す。 つづく

コメント